理事
深沢 元樹
- 聴力:左右85dB
- WEB・DTPデザイン
- ペンドレッド症候群当事者
profile
1975年、群馬県生まれ。姉が二人いる。三人姉弟の末っ子。
幼少時、幼稚園の先生より一つ上の姉と共に聞こえに問題があるのではと指摘を受け、検査したところ「感音難聴」と診断された。原因としては「元々聴神経が弱い性質で、頭を打ったのが原因」と。聴力は両耳共に50dB程度。
片耳だけ補聴器装用で問題ないとして地元の小学校普通学級に進学。
小学時、人と違うことをするのが嫌だった模様で、学校に補聴器を持って行ったもののほとんど装着せずポケットに入れていたと記憶。高学年になるにつれて渋々使い始めていたように思う。
中学校、高校と全く普通の青春時代を謳歌。その頃の聴力はありがたいことに安定しており、聴力が下がって行くなんて夢にも思っていなかった。医療機関にお世話になることもなく、ただ補聴器が壊れたら補聴器やさんで聴力検査を受けて新調してもらう、といった感じだった。だが実際にはジリジリと聴力は下がっていた模様で、恐らく60dBから70dB程度へと下がっていた。
その後、都内の専門学校に通いプロダクトデザインを学ぶ。デザインの基礎をみっちり学び、卒業コンクールで最優秀賞を受賞。
1995年、都会から離れたくて仕方がなく、恩師の紹介で地元の金型屋へ就職。当時出始めた3DCADシステムに早くから触れる機会を得てOSの基礎を学び、同時にホームページ製作に興味を持つようになる。ISDNとか、インターネット通信とか、ニフティとか、ポケベルとか、そんな時代である。そして、そのまま難聴とはほとんど向き合わずに普通の社会人として人生を謳歌し始める。
1998年、同僚にろう者が入社してくる。手話に興味を持ち、手話サークルに通い始める。どっぷり手話世界にハマる。
2000年頃、手話サークルのろう者と難聴者が和太鼓サークルを結成しており、誘われることでどっぷり和太鼓にハマる。
2003年、同じ難聴の姉が出産を機にスケールアウト。そのまま総合病院で検査したところ、難聴の原因が判明。ペンドレッド症候群による前庭水管拡大症、とのこと。姉から連絡があり、弟のお前もそうだから検査しろと言われる。が、とりあえず検査保留。
2010年、やっと自身の難聴と向き合い始める。サイト「50dBの世界」をオープン。ただ、当時おそらく70dB程度まで聴力が下がっていた模様だが本人自覚なし。
2012年、私自身の結婚を機に遺伝が気がかりとなり長野の信州大学で検査を受けたところ、やはり姉と同様にペンドレッド症候群との診断を受ける。遺伝についてはメンデルの法則の通りだがまあ心配ないと言われる。
そこから数日後、晩酌時に硬いあたりめを噛んでいたところ、奥歯がカキーンと噛み合った瞬間、突如右耳スケールアウト、左耳も悪化。一週間ステロイド点滴を受ける。ムーンフェイスの最中に結婚。その後少々回復し両耳とも85db程度に。
2014年、佐村河内事件発生。聴力50dBのキーワードで「50dBの世界」への訪問者急増。佐村河内事件を扱ったドキュメント漫画「淋しいのはアンタだけじゃない」の作者、吉本浩二氏より取材を受ける。仮名でその漫画に登場する。
2015年、息子誕生。
2018年、慶應義塾大学にて遺伝性難聴の研究をされていた藤岡先生の診察を受け始める。
2023年、藤岡先生より患者家族会が立ち上がっていることを知らされる。
同年、息子の誕生以降まったく更新できていない「50dBの世界」を閉鎖。
2024年、ZENPEに参加。
message
当時の母の日記が残っている。
その日記は古い戸棚の奥にしまってあり、だいぶ大人になってから発見したものだ。同じ難聴を抱えている姉と共に読んだ。それは涙なしに読めたもんじゃなく、嗚咽しながら読んだ。幼い二人の子が、ある日突然「感音難聴」と診断されてしまったのだ。当時30そこそこの若い女性であった母の憔悴がそのまま伝わってくるような、そんな内容だった。線路に飛び降りたいとか、死とか、その様なワードが最初に見られた。だがやがて、ことばの教室に通うことで私の発音が上達していくことを素直に喜ぶ内容になり、発音が不明瞭な箇所を毎日メモするなど、私と姉の成長記録へとそれは変貌していった。
2025年現在、80歳になった母はまだまだ元気で鎌倉彫のとある流派の師範代となり、活躍している。
鎌倉彫は、私が小学生だった頃に参加したワークショップがきっかけで始めたのだとか。学校から帰宅すると、居間の隅っこに置かれた座卓の上で彫刻刀を握りしめて作品と向き合っている母の背中を目にするのが常だった。そんな母の横でゴロゴロと寝転がり色々学校の話をしていたのを覚えている。
日記を発見した時、その内容について母に尋ねたことがある。母は普通の母だったし、鎌倉彫に家事に一所懸命でバラエティ番組でよく笑う普通の昭和の主婦に見えた。日記の内容に違和感を感じたのだ。「今となってはどうしてそんなに悩んでいたのか分からない」と母は答えてくれた。
私の父は自然をこよなく愛する男である。幼少の頃から山や川に連れて行かれ、河原でバーベキューして釣りをして森林浴をしてと、そんな贅沢な休日を過ごしていた。ファミコンの登場など夢にも思わなかった時代の話だ。父はまるで絵に描いたようなthe昭和の父といった感じで、高度経済成長期を支えたサラリーマンよろしくバリバリ働き、社交と称した飲み会に付き合い、家事と育児をほとんど母に任せていたように思う。だが、週末は釣りにキャッチボールにと外に連れて行かれ、男たるものはどうあるべきか、昭和の気概を叩き込まれたように思う。今となっては父の生き方は随分と楽だなと思うが、当時は家事と育児の大変さがそれほど周知されていなかった時代だった。
母と同じく80代となった今でも、父は愛車で日本のあちこちへと旅立ち、川や海で魚を釣っては車中泊、そして観光して帰ってきたりする。母を連れていったり、場合によっては一人で行くこともある。
今思い返せば、父は私の障がいについてほとんど気に留めておらず、普通の男児として扱っていたように思う。ひょっとして私が難聴だということをまだ知らないのかと、そんな愚にもつかぬ発想すら浮かぶ。
父のその様な接し方は、私自身が一人の普通の人間であると感じ成長するのに十分なほど効果があったと思う。
事実、難聴を抱える人生であったが、客観的に自分自身をどう見ても、普通の男の普通の人生だと感じている。
でもそれだけに、母の日記はショックだった。
こんな普通の家族で普通の両親、普通の子なのに、当時これだけの負の感情が沸き起こっていたのかと。「難聴」という理由だけで。
難聴児を抱えた親は子がどの様な人生を歩むのか気をもみ、私の母の様に憔悴してしまう方が多いだろうか。
そんな人たちに向け、難聴児から育ってきた私自身が全く普通に生活していることを、このZENPEの場で記していければと考えている。
若かりし頃の母の写真は白黒である。父の愛車に寄り添ってあえてカメラから目線を外し微笑んでいる。
彼女に言ってあげたい。私は普通の人生を歩む。だからどうか気にしないで欲しい。そして、それはあなたのお陰だと。
私の場合、症状の進行は本当に緩やかです。ただ、目眩特有の眼球運動になっていると慶應義塾の診察で指摘されています。あまり自覚ないですが。
思い返せば、確かに夜中に気持ち悪くなり嘔吐したり、意味なくグルグルと地面が回っているのを感じたこともありました。和太鼓にハマっていた時期、締め太鼓の高い音を聞くと、ぐるっと頭の中が回転するような気味の悪い感覚がいつもありました。それでも、そういった身体の訴えを無知さから強引に無視し続け「原因不明!疲れているんだと」と咀嚼しておりました。
その間、緩やかに聴力は下がり続けていたのですが、そのことをあまり自覚しておらず、補聴器が調子悪くなってきたと捉えていました。経年劣化で補聴器はどんどん出力が弱るものだ、日によって補聴器が調子悪いなと、その様に思っていました。でも、あたりめ事件により突発難聴を経験してから危機感を抱くようになり、改めて自身の難聴を見直す様になりました。そして、補聴器の劣化だと思っていたものが、そうではなかったと知ったのは慶應義塾にお世話になってからです。天動説全盛の私の頭の中に地動説が提唱され、それは本当にショックを受けました。補聴器が不安定なのではなく、私の聴力が不安定なんだと。その時既に40代です。難聴のプロだと思っていたのに、自分の聴力が低下していることに全く気づいていなかったのですね。。恐ろしい。
そこから耳を労ることを真剣に考え始め、ストレスの向き合い方を勉強するようになりました。仕事に対する姿勢にもそれは表れているかも知れません。
そんな普通のおじさんですがZENPEの活動を支えることで、私の母のように苦悩を感じてしまう方が少しでも減ればと考えております。